・=・=・ 中国関係オンライン日本語総合誌 ・=・=・
Ka Sei Wa Go
華 声 和 語
Hua Sheng He Yu
== 第44号 ==
== 抗日戦争勝利、日中戦争終結50周年記念特集 ==
1995年(平成7年)8月15日発行 1994年(平成6年)11月 1日創刊
CCCCCC OOOOOO M M 編
C C O O MM MM
C C O O MM MM 集
C O O M M M M
C O O M M M M 部
C O O M M M M
C C O O M M
C C O O M M
CCCCCChina OOOOOOnline M Magazine
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目 次●com/j1995/08c.txt ------------------------------------- 著訳者
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まえがき●特集号発行にあたって
南京虐殺●南京大虐殺記念館館長へのインタビュー -----------「日本と中国」
花岡事件●花岡事件、鹿島への補償要求裁判 -----「花岡裁判勝ったるでの会」
編集後記●抗日戦争勝利50周年に想う ーー編集後記にかえてーー --徐 剛
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【まえがき】
特集号発行にあたって
今年8月15日は抗日戦争勝利、日中戦争終結50周年記念日です。COM編
集部は特集号を計画し、読者にも投稿を呼びかけました。各種の資料が集めら
れたものの、読者からの投稿はありませんでした。これは、読者がこの問題に
無関心だからだろうか、それとも忙しすぎるからなのだろうか、知りたいとこ
ろです。
今回は、日本中国友好協会の機関紙「日本と中国」に掲載されていた「南京大
虐殺記念館朱成山館長へのインタビュー」と、大阪にある「花岡裁判勝ったる
での会」の結成集会資料を主な内容としています。最後に、編集者自身が最近
考えたこと、感じたことをまとめたエッセーを入れています。
なお、COM編集部が発行する中国語雑誌「東北風」も同じく今日に特集号を
発行しています。それと最近の「華声和語」をも参考にしていただければ幸い
です。
これらの努力を通じて、より多くの人があの戦争についてともに考え、そして
その考えを交流できることを願っています。読者の皆さんに是非感想を寄せて
いただき、可能ならばもう一度特集を組みたいと思います。
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【南京虐殺】
戦後50周年、設立10周年の南京大虐殺記念館 朱成山館長に聞く
「日本と中国」
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戦後五十周年の今年、日中両国では「過去の歴史をふまえた上で、新たな関
係構築を」との議論が盛んだが、このほど中国・南京を訪れた『日本と中国』
は設立十周年を迎えた南京大虐殺記念館の朱成山館長(四十二)にインタビュー
し、記念館の果たした役割や今後の日中関係に期待することなどについて聞い
た。その中で朱成山館長は、この十年間に日本人十四万人を含む国内外の三百
八十万人が記念館を訪れ「歴史認識を深めた」ことを評価する一方「虐殺はでっ
ちあげ」などいまだに噴出する日本の閣僚、政治家の発言問題について「歴史
に学ばずして世界の平和はあり得ない」と強い不快感を示した。また今後、期
待する両国関係については「重要なのは二度と同じ歴史の過ちをおかさないこ
と。不幸な歴史を教訓に、より友好的、平和的な関係を築くこと」だと語った。
(聞き手・本紙 小林 さゆり)
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----南京大虐殺記念館(中国名・侵華日軍南京大虐殺遇難同胞記念館)が設
立されて今年でちょうど十年。この間の記念館の役割をどう評価されますか。
「記念館は一九八五年八月十五日、抗日戦争・反ファシズム戦争勝利四十周年
を記念して設立されました。内容は写真パネルや戦時中の新聞報道の展示、記
録映画の上映、そして虐殺事件で亡くなった人々の遺骨を納めた遺骨陳列館な
どで、この十年間の参観者は国内外の三百八十万人。うち外国人は三十五万人
で、日本人は学生や市民グループなど最多の十四万人に上っています」
「こうして多くの人々が歴史認識を深めている。記念館は虐殺事件と平和の
貴さを伝える″歴史教育の場″として貢献することができたと思います」
「記念館のレリーフには″前のことを忘れず、後の戒めとする″との中国の
故周恩来首相の言葉が刻まれていますが、その意味でも当館の参観者は歴史を
尊重し、過去の過ちをきちんと反省することのできる人達だと理解している」
----一口に「歴史認識」といっても、事件の正確な実態についてはいまだに
定説のないのが現状です。例えば事件で虐殺された人の数は、戦後の東京裁判
(極東国際軍事裁判、一九四六--四八年)によれば「二十万人」、中国側の発
表では「三十万人以上」ですね。
「東京裁判では事件の白黒をつけたことが重要なのです。判決文には『長江で
の(殺害、死体遺棄などの)行為を除く』というくだりがあって『二十万人』
には長江で処理された死体の数が含まれていないのです。
「昨年、中国側が発見した『南満株式会社档案』(南満州鉄道株式会社記録
文書)やある司令部少佐の文書によれば、部隊特務班などが″極秘のうちに小
舟に死体を乗せ、長江にとめどなく流した″という。この記録や、江蘇省・江
陰に流れついた死体の数などを総合させると、長江では十万人以上が処理され
たことがわかる。つまり事件の犠牲者の数は三十万人以上ということになるの
です」
----昨年にはまた「南京大虐殺はでっちあげ」だと発言し、国内外に大きな
波紋を広げた日本の閣僚もいました。
「中国人の心をまったく尊重しないものです。悪いのは一部の軍国主義者だ
として国交正常化の時、日本の戦争賠償を放棄した中国人の思いやりを。その
ような政治家にこそこの記念館を見てほしい。記念館には米、英など第三国の
人々の揺るぎない証言もあるからです。もはや事件は有無のレベルの問題では
ない」
「一方で日本の村山首相がこの五月、日本の首相として初めて北京の盧溝橋
(日中戦争ぼっ発の地)を訪れ、過去の過ちに『深い反省の念』を示されたこ
とは多くの中国人の尊敬を集めました。また日本では、″過去の植民地支配や
侵略的行為を反省する『戦後五十周年決議』″が議論されました。歴史は未来
の鑑(かがみ)であり、教訓です。歴史に学ばずして世界の平和はあり得ませ
ん」
----記念館の今後の取り組みは。
「歴史的節目の今年を記念して、史料の充実を図りたい。記念館大門や事件
犠牲者の『殉難者名簿壁』の建設、また関係史料の収集に力を入れる。昨年末
には事件の生存者六百四十二人の証言を集めた『侵華日軍南京大虐殺幸存者証
言集』(朱成山編著、南京大学出版社)を刊行しました。生存者の高齢化が進
む今、こうした取り組みは急務です」
----今後の日中関係に期待することは。
「南京大虐殺は、隣国で歴史的、民族的にも非常に近い中日両国の間に起こっ
た史上類のない不幸な出来事でした。重要なのはこの歴史に正しく対処して、
二度と同じ過ちをおかさないこと。不幸な歴史を教訓により友好的、平和的な
関係を築くこと。そのためには例えば共同研究や史料の発掘など、中日双方の
事件究明への一層の努力も必要でしょう」
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南京大虐殺
日中戦争さ中の一九三七年十二月十三日から六週間にわたって、日本軍が中国
の南京で多数の中国人を殺害し、略奪、暴力行為をおかした事件。戦後の東京
裁判で連合国から追求され、日本人の多くは初めてこうした不幸な事件のあっ
たことを知った。
虐殺の犠牲者は、中国側の発表によると三十万人以上。また同事件の生存者
は南京市側によれば、いまも市内に約千人がいるとされる。
南京大虐殺をめぐる論争は八二年、事件を記載する日本史教科書の検定問題
をきっかけに始まった。九三年十月には、同検定をめぐり家永三郎東京教育大
学名誉教授が起こしていた訴訟審で、東京高裁は南京大虐殺など三ヵ所の検定
意見で違法を認めた。
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【花岡事件】
花岡事件と鹿島への補償要求裁判
「花岡裁判勝ったるでの会」
花岡事件とは
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1944年8月8日耿惇さん以下299名の人々が中国から強制連行され、現
在の秋田県大館市花岡の鹿島組(現鹿島建設)中山寮に収容されました。
中国人たちが強制された仕事は花岡鉱山の関連工事でした。休日もない長時間
重労働、食事も衣服もろくに与えられない死と隣り合せの状態、鹿島組補導員
などの暴行、虐待で病気、けが、死亡する人が続出しました。その為第2次5
89名、第3次98名と連行を重ね、その数は1945年6月4日までに98
6名にのぼりました。その内418名が死亡したのです。
このような仕打ちに抗して、中国人たちは度々鹿島組に対して食事の改善、暴
行の中止などを訴えました。しかし、鹿島組はこれらを受け入れるどころか、
逆に食事の削減、労働の強化を押し付けてきました。ここに至って耿惇さん等
はこのまま全員死を待つよりは殺された同胞の無念を晴らすべき蜂起し、日本
人4名と手先となった中国人1名を殺し、中山寮を後に揣摩した。
これが1945年6月30日の「花岡蜂起」です。
蜂起後ただちに、憲兵隊、警察、自警団、鹿島組など延2万人に包囲され、次
々と捕えられました。中山寮から数キロ離れた獅子ケ森にたてこもった主力部
隊も、7月1日朝には共楽館広場に集められました。このように「蜂起」は失
敗しました。広場では、厳重な監視のなか、二人一組に縛られ、三日三晩水も
与えられずに日本人の虐待と拷問を受けました。その結果80名とも100名
とも言われる人々が虐殺されたのです。
「蜂起」の指導責任者として耿惇さんら12名が「戦時騒擾殺人罪」で
起訴されました。そして日本の敗戦にもかかわらず、45年9月11日、無期
懲役などの有罪判決を受けました。
はじめに ーー花岡裁判の意義ーー
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今から50年前、秋田県花岡に強制連行された約千人の中国人民のうち、鹿島
組(現「鹿島」)による強制労働、虐待により418名が虐殺されました。中
国人たちは仲間が次々と倒れる中、「座して死を待つよりは」と鹿島と日本帝
国主義に一矢を報いるため蜂起に立ち上がりました。彼等の死をも覚悟しての
蜂起は、連合国捕虜や強制労働を強いられていた朝鮮人、さらには抑圧され侵
略戦争に加担させられていた日本人もともに立ち上がることを願っていました。
そして50年後の今日、彼等は裁判によって再び鹿島に立ち向かおうとしてい
ます。50年前の蛮行の責任すら認めず、強制連行は「政府がやったこと」と
開き直す鹿島。強制連行は鹿島が自らの企業利益のために積極的に行ったもの
に他ならず、この花岡裁判は、鹿島の責任を追及し花岡事件犠牲者の名誉回復
を目指すものであると同時に、再び日本人に対して「ともに戦おう」と呼びか
けるものです。
アジア各国に経済侵略を進め、今日莫大な経済権益を築き上げた日本企業と、
それを守るために「国際貢献」の名のものに海外派兵を押し進める日本政府。
その姿は、朝鮮、中国侵略からアジア太平洋戦争へと突き進んでいった「明治」
以降の日本の姿と同じものです。それは過去の侵略に対する反省がなされてい
ないことの結果です。鹿島と日本政府に強制連行の責任を認めさせることは、
現在の日本の姿を問直し、再び日本による侵略戦争を引き起こさないための力
ともなるのです。花岡事件犠牲者は私たちに「日本の過去の歴史をどのように
とらえ、今後日本をどのような国にしていくのか」を問いかけているのです。
私たちは犠牲者たちのこの問いかけに応えたいと思います。花岡裁判を勝利さ
せ鹿島や日本政府に強制連行、侵略戦争の責任をみとめさせることで、自らの
過去に決着をつけ、平和、平等、互恵、共生のアジアを作っていく一翼を担い
たいと思います。
裁判提訴までの主な経過
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1989年12月22日 花岡受難者聯誼準備会が鹿島に対し「公開書簡」発
表。3項目の要求を出す。
1990年7月5日 聯誼準備会、鹿島と直接交渉。鹿島、強制労働の責任を
みとめ謝罪。3項目要求に対しては話し合いで解決する
方向を確認。
1990年11月10日 聯誼準備会で正式に聯誼会となる。
1991年8月14日 聯誼会追悼会(保定)。訪中団も参加。
1992年7月3日 聯誼会、鹿島と第2回直接交渉。
1993年6月29日 魯?溝橋の中国人民抗日戦争記念館で花岡事件展開幕。
1993年12月28ー29日 聯誼会総会。「第2次公開書簡」。「日本の
広範な人々への呼びかけ」を発する。
1994年7月6日 聯誼会、鹿島と第3回直接交渉。鹿島「強制連行は国が
やったこと」、「中国人は契約労働者」、花岡で犠牲者
が多かったのは「蜂起という特殊事情があったから」と
発言。
1994年10月25日 聯誼会、鹿島と第4回直接交渉。
1994年10月26日 対鹿島抗議行動。
1995年3月22日 鹿島へ交渉決裂を通知。
1995年3月31日 全国抗議行動。鹿島関西支店に対し初めての門前ビラ
まきと交渉を行う。
1995年6月9日 第2波全国抗議行動。
1995年6月28日 東京地裁へ提訴。第3波全国抗議行動。
戦後補償運動、平和運動、労働運動など幅広い協力を広げながら、鹿島に対す
る直接的な抗議行動が全国に拡大してきました。裁判闘争を勝利させるために
も、裁判闘争と平行して鹿島を追い込むこのような闘いを継続強化していきま
しょう。
裁判提訴にあたって ーー勝利の展望はここにあるーー
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裁判をやるからには勝たなければなりません。勝つためにありとあらゆること
に取り組んでいきましょう。
花岡事件は横浜のBC級戦犯裁判で裁かれ、当時の鹿島組花岡出張所職員や花岡
警察職員に対し死刑判決を含む有罪判決が下されています。鹿島の犯罪は既に
国際的に確定しているのです。また、公的資料である「外務省報告書」の調査、
中国現地調査や生存者への聞き取り調査など、裁判闘争で鹿島の責任を明らか
にするための調査行動が進められています。これらの成果はかならず花岡裁判
の勝利をもたらしていくでしょう。それは、強制連行責任を問う闘い全体を大
きく前進させる可能性をもっています。
中国人強制連行企業35社のうち、広島安野の工事をした西松組に対しては既
に交渉が進められています。今後さらに広がっていくでしょう。三菱重工や日
本鋼管などの他の強制連行企業に対する闘いや日本軍による性的奴隷問題を始
め、日本政府に対する闘いが前進するなか、他の戦後補償要求闘争を闘う当該、
支援団体の仲間との連帯強化がたいへん重要になってきています。
日本政府が戦後補償に代わる措置として打ち出した「女性のためのアジア友好
基金」が国内外の厳しい批判の中で頓挫し、日本の戦後処理が国連人権委員会
でも問題にされていることから明らかなように、戦後補償問題で追い詰められ
ているのは日本政府や企業の側です。労働組合や他の平和運動団体などの広い
関心を期待して、国際的な戦後補償要求運動と固く手を結びながら闘いを進め
ていくことで勝利の展望は大きく広がっていくでしょう。
勝ったるでの会の出発
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花岡受難者聯誼会の三項目要求を支持します
1989年12月22日、花岡受難者聯誼会は「鹿島建設に対する公開書簡」
を発しました。強制連行し虐待した企業はいずれも半世紀近くにわたり被害者
を放置しつづけたのです。1958年に劉連仁さんが日本政府に対して賠償を
含む一切の請求権を留保し帰国して以来、初めての中国からの具体的な行動で
した。中国人強制連行という事実すら忘れ去っていた私たちに衝撃を与えまし
た。「公開書簡」では鹿島に対し次の三項目要求を突きつけています。
1、史実を重んじ改悛し、謝罪をすること。2、犠牲者を追悼氏、後世を教育
するため記念館を建立すること。3、生存者、遺族に500万円の補償を行う
こと。
鹿島が、それを実行すれば他の模範となり、行わないならばこの血債を子子孫
孫追及していくと宣言されています。鹿島により犠牲となり放置された同胞の
名誉を取り戻すこととともに強制連行にかかわった企業のとるべき態度を教え
ているものです。それはまた私たちに事実を知り、そこから出発することの重
要性を教えました。
花岡受難者聯誼会の提訴の闘いに連帯します
1990年7月5日、鹿島(交渉当時鹿島建設)は花岡受難者聯誼会に対して
虐待の事実を認め謝罪しました。強制連行にかかわった企業の謝罪は注目され、
その後の様々な個人補償要求の先駆けともなった感があります。従って完全な
妥結にむけて期待が持たれたのですが、今年の3月に至るまで鹿島の側は何一
つ積極的な態度を示すことがありませんでした。鹿島は、政府の政策に従い行っ
たまでですが、当時はすべてが悪かったのだから個別企業に責任はないという
主張には何の道理もありません。他の者の罪によって自らの罪が消えることは
ないのです。それどころか、鹿島(当時は鹿島組)は土木業界の中でも中心的
な位置にあり、軍需工事の中に自らの営利目的を追及し達成してきた一大企業
です。紛れもなく侵略を支えてきた企業であったのです。6月28日提訴の訴
状の中でもその鹿島を追及しています。訴訟では、鹿島が隠し持っている資料
を提出させたいと思います。
花岡訴訟弁護団、中国人強制連行を考える会とともに訴訟の勝利を目指します
私たちはこの中国人強制連行についての初めての日本の法廷での裁判を強制連
行35企業の戦争責任にかかわるものとして捉えています。日本港運業会大阪
築港と鹿島組花岡の二つが、横浜でのBC級戦犯裁判にかかり有罪の判決が下さ
れています。その裁判を進めるために集められた鹿島組についての膨大な資料
がアメリカ国立公文書館に保存されています。それにもかかわらず鹿島の戦争
犯罪が許されるならば、一体強制連行企業の責任はどこに消えてしまうのでしょ
う。他の34企業の責任を追及することも非常に困難となります。まず花岡裁
判で突破口を開かなけねばなりません。そこで大阪の地でも「花岡裁判勝った
るでの会」を結成します。戦後50年目にして、中国人強制連行の責任を具体
的に厳しく追及するスタートを切りたいと思います。花岡訴訟の勝利を目指し、
傍聴参加などで力を合わせていきます。また可能な限り資料調査などにより裁
判での鹿島追及に協力します。
三項目要求に応じない鹿島への抗議行動を継続します
関西支店門前ビラまきを継続します。今後さらに、その他の抗議を進めていき
ます。3月31日東京大阪での抗議行動は、6月9日全国十箇所に広がりまし
た。6月17日には台湾での抗議行動がありました。近くニューヨークでも計
画されています。粘り強い抗議行動を続けていきましょう。
学習会の開催やニュースの発行を行います
中国人強制連行についての学習会やパネル展を開催して、たくさんの人々とと
もに進めていきたいと思います。またニュースを発行しさまざまな取組をして
いる他の団体との情報交換します。花岡事件が周りのすべての人々に知っても
らえるよう努力していきましょう。
会員の呼びかけ
以上の課題にとどまらず多くの人の意見、提案により力を合わせて発展させて
いきたいと思います。ぜひ、「勝ったるでの会」の会員になってください。
(「花岡裁判勝ったるでの会」の住所:大阪市西成区長橋2ー5ー11、電話
番号:06ー561ー9372、年会費:3000円)
宣言文
〜〜〜
今年6月28日、花岡事件生存者、遺族を原告とする、対鹿島損害賠償請求訴
訟の訴状が裁判所に提出された。「花岡事件」という鹿島の歴史的犯罪がつい
に公に暴露断罪されるその時が来たのである。
1990年、「花岡受難者聯誼会」との共同発表において、鹿島側が一応の
「謝罪」を表明して以来、生存者、遺族と私たちは、「話し合いによる解決」
を心より願ってきた。しかし、その後の交渉において、鹿島は一片の誠意も示
すことなく、花岡で死者が多かったのは「蜂起という特殊事情があったから」、
「強制連行は国がやったことで、企業に責任はない」などの暴言を吐き続けた。
鹿島の「謝罪」が単なる時間稼ぎのまったくのまやかしであることはすでに明
白である。
九死に一生を得た花岡生存者は鹿島によって受けた虐待と屈辱の日々を50年
経た今日も鮮明に記憶している。また一家の大黒柱である父や息子を虐殺され、
辛酸な生活を強いられた遺族は、日本と鹿島に対する怒りと憎しみを今も持ち
続けている。生存者と遺族が負った傷痕は今以て癒されぬままである。
こうして歴史と現実を突きつけられた加害企業鹿島が生存者、遺族にせめても
の償いをするのは当然の理であり、まさに人間としての初歩的な責務である。
このような自明なことを裁判で争わなければならない現実に私たちは深く悲し
みとともに激しい怒りを覚えるのである。
鹿島は生存者、遺族を踏みにじったばかりでなく、私たち日本、日本人の良心
と道義をも汚泥に叩き込もうとしている。
鹿島が横浜BC級戦犯法廷で裁かれ、重刑が言い渡されたという歴史事実をあげ
るまでもない。戦前、戦後を問わず、鹿島が一貫してアジアの人々の血を吸い、
その屍を食らいながら肥え太ってきた、歴史的犯罪企業であるという事実を自
ら宣言したに等しい。
私たちは「花岡裁判」を全力で支持していくとともに、「花岡受難者聯誼会」
が提示した正当な要求が実現されるその日まで、鹿島に対する闘いを継続して
いくことをここに宣言する。
1995年7月8日
追悼集会参加者一同
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【編集後記】
抗日戦争勝利50周年に想う ーー編集後記にかえてーー
徐 剛
事実調査の共同作業から共通の歴史認識へ
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第2次村山内閣が誕生した。就任早々の島村文部大臣は記者に対して「あの戦
争は侵略だったかどうか、見方による」、「謝罪はいかがのものか」と発言し
たと報道されている。
このような閣僚や政治家による「失言」が度々起きており、今さら驚くことも
ないかもしれない。そういう発言が全然なされていなかった内閣の方がむしろ
見つけにくいように思う。しかしなお、今回の発言が終戦50周年という節目
の時にあっただけに、特別の意味があると私は思う。氏は日本の文部大臣であ
り、日本の教育を牛耳るトップの座にある。これでは、日本の若者とアジアの
他国の若者との歴史認識の差が縮まることは難しいのではないかと心配せざる
をえない。
私はある機会に日中関係について講演したことがある。その中で歴史認識の違
いが両国関係に今なお陰を落としていると指摘した。質疑応答の時には、日本
は天皇も首相も謝ったのだから、これ以上何をすればいいのかという質問を受
けた。確かに、日本のトップは曖昧ながらも反省の念を表明している。しかし、
度重なる「失言」やあの国会決議から見られるように、心の中ではあの戦争で
は全然或いはそれほど悪いことをしていないと思っている日本人がまだ案外多
いのではないか。そして、謝罪という言葉は滅多に使われたことはない。その
ように答えた。
どこの国でもそうであるように、何かの衝突が起きたときに、和解するには三
つのステップが必要である。まず、事実を事実として確認するという作業を当
事者が共同で行う。その次に、誰の過失だったかがはっきりすれば、過失を犯
した側が謝罪する。最後に、しかるべき賠償を行う。この三つのうちの一つで
も怠れば、真の和解はできないものである。例えば、本当に何があったかもはっ
きりさせないで、適当に「済みませんでした」といっても、誠意が伝わらず、
単に早くことを済まそうとしているだけだととられるであろう。あの戦争につ
いては、日本側に一番欠落しているのは、最初のステップだと私は思う。それ
がどんなに辛い作業であろうと、自らの手で事実を究明しようという姿勢が見
当たらなかった。従軍慰安婦の問題については日本政府が事実をともに探すど
ころか、軍直接関与の証拠資料を民間が見つけるまで、政府が関与を否定し続
けたのである(このような対応は対外的な問題のみならず、日本国内の問題に
対しても同じだが)。これでは、たとえ口頭で悪かったと言っていても、相手
側は誠意を感じないのも当然であろう。
応分の補償が必要である
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
最後のステップは、応分の賠償をすることである。国家間賠償については、法
的には既に解決済みであるとの主張は否定できない。これもまた国によっては
形がまちまちである。中国との間は、中国政府は賠償請求を放棄したのである
(これは中国の国民がどこまで賛成したかは別として)。しかし、中国政府が
代わって損害を被った中国国民に補償をしたわけではないため、中国の国民は
自ら日本政府に補償を求める権利を有するはずである。応分の補償が得られな
ければ、彼等の傷跡はどのように癒されるのであろうか。その傷跡が癒されな
ければ、両国民の真の和解も、真の友好もまたありえないのである。このよう
な立場に立ち、日本政府にも、中国政府にも、協力を要請したいものである。
中国政府は従来、民間人が日本政府に補償を請求することを許さなかった。数
年前、多数の人民代表が民間による補償請求の許可を政府に要求した結果、政
府も従来の政策を改め、「中国政府は対日賠償請求を放棄したが、個人による
補償請求権利を放棄したものではない」という立場を取るようになった。しか
し、最近の一連の出来事をみると、この立場が揺らいでいるようにも感じる。
例えば、元従軍慰安婦や七三一部隊の被害者遺族らの、日本政府を相手に補償
請求の訴訟を起こすための出国を許可しなかったり、彼等の北京でのかわりの
記者会見を警察が強制的に中止させたり、また「中国民間対日補償請求委員会」
の童増代表を連行したり(数日後釈放)したと報道されている。政府は、(訴
訟のための)「今回の訪日は対日外交に影響する」とか、「対日関係は対米関
係に次いで重要だ」(朝日新聞による)と訪日不許可の理由を説明している模
様である。しかし、これは個人が補償を請求する権利を有するとの政府自身の
立場に矛盾するし、また国民の権利を政府の都合で侵害してはいけないという
日本の制度からして、このような制限が中国のイメージを悪くし、逆に対日外
交を不利にしているのではないかと憂慮してならない。
日本政府は中国政府が賠償請求権を放棄したことを受け、中国へ経済援助(そ
のほとんどが低利の円借款供与)を行ってきた。今となって、補償を請求され
ては困ると思っているかもしれない。また、中国政府の賠償請求の放棄によっ
て、日本が中国へ強い態度で臨むことができず、ストレスが溜まっているのも
事実である。しかし、個人への補償をしても、中国政府が放棄した戦争賠償と
比べて大きな金額にならないし、またこうすることによって、両国民の真の和
解、真の友好、また両国のより平等な関係に寄与するので、積極的に応じても
らいたい。
日本とアジア
〜〜〜〜〜〜
戦後処理のことで、日本とドイツがよく比較される。その差は歴然としており、
いろいろな説明がなされている。その中では、日本を占領統治したアメリカが
冷戦のため、天皇制を含む日本の統治機構をほとんどそのまま残し、抜本改造
をしなかったことが最もよく上げられる。
それももっともだと思うが、もう一つドイツとの違いは、ドイツと周辺国との
間に大きな力の差はなかったが、日本と中国や朝鮮半島との間に、大きな力の
差があったということである。日本の降伏後、中国は内戦に突入したし、朝鮮
半島も分断状態であった。内戦がやっと終わったごろ、朝鮮戦争が勃発し、中
国は大きな代価を払ったが、日本は軍需物資の生産で経済が立ち直った。戦争
前からついた力の差が縮まるどころか、更に拡大してきたのである。戦争が終
わって20年経ったところ、日本はアジアに経済援助をする側にかわった。援
助を受ける側の国に一々謝罪する必要がなかったのも本当であろう。一方、ド
イツは周辺国に対して優位に立っているのではなく、周辺国との協力関係がな
ければ生きていけなかったのである。従って、過去を精算する必要が強くあっ
たのである。
このような「環境」の違いは、日本とドイツの戦後処理の違いをもたらした大
きな原因の一つではないかと私は思う。もし経済的にアジア各国が日本よりも
優位に立ったならば、戦後処理はきっと異なる形で為されたに違いない。日本
の援助も大きな推進力となったアジアの経済成長は、日本との経済力の差を縮
め、やがてより平等な関係になる日が来るかもしれない。その時には、先の戦
争についてより共通な認識を持てるようになるかもしれない。
良心的な日本人も多し
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
一言で言えば、日本の戦後処理が物足りないが、非常に努力している日本人も
また多いのである。忘れていけないのは、アジア各国の民間被害者が日本政府
を相手に起こしたすべての補償請求訴訟は日本人の支援団体や日本の弁護士の
献身的な支援をなくしてはできないものが多いことである。この特集号で取り
上げている「花岡裁判勝ったるでの会」も数多くのそういう団体の一つである。
誤解してはいけない。彼等が日本を嫌っているからそういう行動をとっている
のではなく、深く日本を愛しているからこそそういう行動を取れるのである。
彼等は正義、日本人の良心、アジアと真の友好を守るために、多くの犠牲を払
いながらも闘い続けているのである。私は彼等から深い人間愛を感じとってい
る。彼等の闘いから、日本にもアジアにも明るい未来があるとの信念を得た。
また、彼等の存在と彼等の行為は日本が確かにアジア一の先進国だという実感
を持つようになった。
原爆、被害と加害
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50年前の今日、日本が降伏した。その前の8月6日と8月9日に、アメリカ
は広島と長崎にそれぞれ原爆を落として、多くの民間人も殺された。毎年8月
になると、原爆の犠牲者追悼行事が行われてきた。今年も同じであった。
あの戦争は、中国や朝鮮、他の多くの国の人々を苦しめただけでなく、その結
果として日本人にも大きな被害をもたらした。その中、侵略を受けた国で起き
ていることと同様、女性や子ども、老人の犠牲が多く含まれている。広島や長
崎もまたそうであった。彼等もアジアを始めとする各国の犠牲者と同じように、
日本の軍国主義の犠牲者であると私は思う。
アメリカにいる中国人と原爆の話をしたことがある。民間人を大量殺した原爆
の使い方に問題があると私は言ったら、次のような答えが返ってきた。「日本
軍は中国で民間人を毎日殺している。原爆がたとえ一日でも早く戦争を終結さ
せたとすれば、多くの中国の民間人がそれによって救われた。仕方のないこと
だ」と。彼自身のお爺さんが日本軍に殺されたのである。このような経験をも
つ彼を納得させることが難しい。原爆による大量な広島や長崎の市民の犠牲に
よって、多くの中国の民間人が日本軍の銃口から救われたのもまた事実である。
それでも、広島に原爆を落としても長崎に落とす必要がなかったのではないか
と私は思う。
しかし、多くの日本人が原爆の被害を強調しながらも、原爆を落とされるに至
らしめた最初の原因を作った人達、すなわち戦争を発動した人達をなぜ自らの
手によって裁判にかけなかったのか、不思議で仕方がない。かのA級戦犯とし
て起訴された人が、のちに日本の首相となったのではないか。その人たちこそ
原爆の被害に責任を負わなければならない人であった。たくさんの閣僚が毎年
参拝する靖国神社にはA級戦犯も祭ってあるのではないか。また、七三一部隊
の「科学者」たちは、のちに大学の学長になったり、学部長になったり、その
他の「えらいさん」になったりした。そういう人たちをどうして辞めさせなかっ
たのか、マスコミはどうして彼等の氏名を未だ公表しないのか、理解できない。
自分自身を見つめる
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今年は抗日戦争勝利50周年にあたるだけでなく、甲午戦争(日清戦争)10
0周年でもある。日本と中国の近代史を見るなら、この100年前の戦争から
見なければならない。甲午戦争では、中国の海軍がほぼ全滅したのみならず、
中国の遼東半島、山東半島が占領された。その結果、当時の日本の国家予算の
4年分に相当する賠償を日本に支払い、台湾を日本に割譲した(これが今の台
湾問題に引きずっている)。日本は得た賠償を教育の充実や軍備の増強に使い、
更に強くなり、今度もっと大規模な中国侵略をしはじめた。1931年の柳条
湖事件から1945年の日本降伏まで、中国は3500万人の死傷者を出し、
1000億ドルの経済損失を被った。中国の発展レベルは今後50年立っても、
今の日本のレベルに達しないかもしれない。これは日本の侵略が一方では中国
を後退させ、一方では日本を発達させた結果とも言えなくはない。アヘン戦争
以来、中国を侵略したのはもちろん日本だけではなかったが、日本の侵略が特
に猛烈であり、最も大きな損害をもたらしたのである。南京大虐殺(本特集号
の第2項と「東北風」の特集号を参照)や七三一部隊の人体実験(華声和語第
42号を参照)など、悪名高い残虐行為が歴史に深く刻まれている。
我々はこのような残酷行為に対して非難し、謝罪と償いを求めると同時に、ど
うしてこのような結果になってしまったかを考えなければならない。
理由は中国が弱かったことにある。どうして弱かったか、どうして日本のよう
に近代化を成し遂げることができなかったのか。どうして北洋海軍の建設費を
削りながら、一方では統治者が腐敗しきった生活ができたのか。どうしてもっ
と国民の教育にお金を使わなかったのか(中国には今でも3億人以上の文盲が
いると言われる)、皆で考える必要があるのではないか。そして、そのような
過ちは今二度と犯してはならないものである。歴史から学ばない者は進歩しな
い。
人間の世界は過去も、現在も、そして将来も、力をベースにする(友好的な態
度もまた力の一つであることをお忘れなく)。中国は力がなかったため、侵略
を受け、同胞が殺され、女性が強姦された。統一した中国、原子爆弾を持った
今の中国はもはや外国の侵略を受けないだろうと一安心するが、我が祖国は今
どの発展段階にあるのか、直面している問題の多さに目をつぶってはいけない。
一人の個人にできることが限られているが、少しでも努力しようではないか。
例えば、「花岡裁判勝ったるでの会」に入会して、少しでも協力するとか、裁
判の傍聴に行くとか、中国の貧しい子どもたちにあなたの数百万円もある給料
から数千円の奨学金を出す(例えば日本では「日中児童教育基金」
Edufund@larks.tutics.tut.ac.jpがそういう目的で活動している)とか、一人
の個人にでもできることがあるのではないか。そして、今なお高い地位にある
旧七三一部隊の「科学者」の名前を見つけ出し、我々自身で公表しようではな
いか。
もう一つは、21世紀になって中国が大きな力を持った時に、昔の日本と同じ
ように他国を苛めたり、自分が受けた屈辱を他国民に受けさせてならないこと
である。そうならないためには、民間による運動が予防的に必要になってくる
であろう。
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編集部 com@mercury.c.hiroshima-dit.ac.jp
編集担当: 徐 剛@大 阪
校正担当: 村木 毅@東 京
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